【貞観政要】東洋のリーダーシップ論の格言まとめ

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東洋思想におけるリーダーシップ論の要諦は『貞観政要』にあり

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東洋におけるリーダーシップは、君主のための学問、つまり「帝王学」として古来から中国思想の中で育まれています。中でも最も有名な書籍は、おそらく『貞観政要』といって差し支えないでしょう。

かの本は唐の名君として名高い太宗とその臣下たちの政治問答集でありまして、「貞観の治」と呼ばれた治世を行ったリーダーとそのフォロワーの姿勢が明快に書かれており、21世紀の現代にも深い示唆を与えてくれます。

さて、この『貞観政要』は、太宗の死後、宋の時代に献上というかたちで編纂され、日本のリーダーにも大きく影響を与えています。古くは尼将軍として権威を振るった北条政子や徳川家康、近現代では明治天皇が愛読していたそうです。

ごく最近も、ライフネット生命でご活躍の岩瀬大輔氏がブログで紹介されていました。未だ衰えざる古典として名高いこの『貞観政要』を中心に据えつつ、その思想を育んだ土壌と、その影響を受けたであろうリーダーの言動をご紹介したいと思います。

『貞観政要』以前のリーダーシップ論

先から述べておりますように、『貞観政要』は東洋思想の一つの集大成であります。この思想を育む社会的な要因として見逃せないのは、なによりも諸子百家の存在です。

血縁主義によって体制を固めた周の時代に起因する儒教的精神を土壌とし、つづく春秋戦国時代に諸子百家は様々な思想の種を作り、育んでおりました。

彼らの思想を格言として下記に抜粋します。

繋矩の道
発言者 孔子
出典 大学(第六段)

下に悪(にく)む所をもって上につかうるなかれ。 前に悪む所をもって後ろに先立つなかれ。 後ろに悪む所をもって前に従うなかれ。 右に悪む所をもって左に交わるなかれ。 左に悪む所をもって右に交わるなかれ。 これをこれ繋矩(けっく)の道という。

中庸
発言者 孔子
出典 中庸

子程子(していし)曰く、偏らざるをこれ中(ちゅう)と謂い、易わらざる(かわらざる)をこれ庸(よう)と謂う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。この篇は乃ち(すなわち)孔門伝授の心法(しんぽう)なり。子思(しし)その久しくして差わん(たがわん)ことを恐る。故にこれを書に筆し(ひつし)もって孟子に授く。その書始めは一理を言い、中は散じて万事と為し、末は復た(また)合わして一理と為す。これを放てば則ち六合(りくごう)に弥り(わたり)、これを巻けば則ち密(みつ)に退蔵(たいぞう)す。その味わい窮まりなし。皆実学なり。善く読む者、玩索(がんさく)して得るあらば、則ち終身これを用いて尽くす能わざる者あらん。

九徳

発言者 舜帝の臣下
出典 書経

  1. 寛(かん)にして栗(りつ)(寛大だがしまりがある)
  2. 柔(じゅう)にして立(りつ)(柔和だが事が処理できる)
  3. 原心(げん)にして恭(きょう)(まじめだが丁寧で親切)
  4. 乱(らん)にして敬(けい)(事を治める能力があり慎み深い)
  5. 擾(じょう)にして毅(き)(おとなしいが芯が強い)
  6. 直(ちょく)にして温(おん)(正直で率直だが温和)
  7. 簡(かん)にして廉(れん)(大まかだがしっかりしている)
  8. 剛(ごう)にして塞(そく)(剛健だが内も充実)
  9. 彊(きょう)にして義(ぎ)(剛勇だが正しい)

『貞観政要』で語られるリーダーシップ論

身理(おさ)まりて国乱るる者を聞かず
発言者 詹何(センカ)
魏徴が楚の荘王の故事から紹介。

貞観初年のこと、太宗が側近の者にこう語った。 「君主たる者はなによりもまず人民の生活の安定を心掛けねばならない。人民を搾取して贅沢な生活にふけるのは、あたかも自分の足の肉を切り取って食らうようなもので、満腹したときには体のほうがまいってしまう。天下の安泰を願うなら、まず、おのれの姿勢を正す必要がある。いまだかつて、体がまっすぐ立っているのに影が曲がって映り、君主が立派な政治をとっているのに人民がでたらめであったという話は聞かない。わたしはいつもこう考えている。身の破滅を招くのは、ほかでもない。その者自身の欲望が原因なのだ、と。いつも山海の珍味を食し、音楽や女色にふけるなら、欲望は果てしなく広がり、それに要する費用も莫大なものになる。そんなことをしていたのでは、肝心な政治に身がはいらなくなり、人民を苦しみにおとしいれるだけだ。そのうえ、君主が道理に合わないことを一言でもいえば、人民の心はばらばらになり、怨嗟の声があがり、反乱を企てる者も現れてこよう。わたしはいつもそのことに思いを致し、極力、おのれの欲望をおさえるようにつとめている」諫議大夫の魏徴が答えた。 「昔から、聖人とあがめられた君主は、いずれもそのことをみずから実践した人々であります。ですから理想的な政治を行うことができたのです。かつて楚の荘王が賢人の詹何を招いて政治の要諦をたずねたところ、セイカは『まず君主がおのれの姿勢を正すことだ』と答えました。楚王が重ねて具体的な方策についてたずねました。それでも詹何は『君主が姿勢を正しているのに、国が乱れたということはいまだかつてありません』と、答えただけでした。陛下のおっしゃったことはセイカの申し述べたこのことばと、まったく同じであります。

明君と暗君の違い
発言者 魏徴

貞観2年、太宗が魏徴にたずねた。
「明君と暗君の違いはなにか」
魏徴が答えるには、
「明君の明君たるゆえんは、広く臣下の進言に耳を傾けることであります。また、暗君の暗君たるゆえんは、お気に入りの家臣のことばしか信じないことであります。詩に、『いにしえの賢者言えるあり、疑問のことあれば庶民に問う』とありますが、聖天子の堯や舜はまさしく四方の門を開け放って賢者の来るのを待ち、広く人々の意見を聞いて、それを政治に活かしました。だから堯舜の治世は、恩沢があまねく万民に及び、邪悪な共工やコンのともがらといえども、かれらの明を塞ぐことができませんでした。つまり堯や舜は巧言を弄する者どもに惑わされなかったのです。これに対し秦の二世皇帝胡亥は宮中の奥深く起居して臣下を退け、宦官の趙高だけを信頼しました。ですから完全に人心が離反するまで、政治の実態に気づきませんでした。梁の武帝もまた側近のシュイだけを信頼した結果、将軍侯景が反乱の兵を挙げて王宮を包囲しても、まだ信じかねる始末でした。また、隋の煬帝も側近の虞世基のいうことだけを信じましたので、盗賊が村や町を荒らしまわっている政治の乱れに気がつかず、結局は身を滅ぼしてしまいました。このような例でも明らかなように、君主たるモノが臣下の進言に広く耳を傾ければ、一部の側近に耳目を塞がれることなく、よく下々の動きを知ることができるのです」
太宗は、魏徴のことばに深く肯いた。

草創と守成いずれか難き
発言者 太宗
新しく国を起こすことと、それを守ること、どちらが難しいか。
部下である房玄齢は創業の難しさを、同じく部下である魏徴は守成の難しさを説いた。太宗はどちらの意見にも首肯し、「これからは共に守成の困難を乗り越えていきたい」と語った。
安きに居て危うきを思う
発言者 魏徴
国が困難に陥れば、為政者は優れた人材を登用し、その言葉に耳を傾ける。しかし国の基盤が固まってしまえば、必ず為政者の心に緩みが生じる。そうなると、臣下も我が身第一に心得て、君主に過ちが会っても、あえて諌めようとはしない。こうして国は下降線をたどり、ついには滅亡に至る。国が安泰なときにこそ心を引き締めて政治にあたらなければならない。『易経』で言うところの「治にいて乱を忘れず」と同じことであろう。
長年手にしてきた弓についてさえ奥義を極めていない、まして政治においておや
発言者 太宗
太宗が弓の名人と語り合った時の発言から。この後、広く識者の意見を取り入れるように努め、高級官僚を交代で宿直させ、ともに語り合うようになったという。
君は舟なり、人は水なり
発言者 太宗
君主は舟で民は水。浮くも沈むも水次第。もともとは、『荀子』の王制編にある文章である。荀子は、君主の心スべき要点としてつぎの三箇条をあげている。

      後世な政治を行い、人民を愛すること
      礼を尊重し、優れた人物に敬意を表すること
      賢者を登用し、有能な人物を抜擢すること
木、縄に従えば正し
発言者 王桂
どんなに曲がりくねった機でも、縄墨にしたがって製材すれば真っ直ぐな材木が取れる。それと同じように、君主も、臣下の諫言を聞き入れれば立派な君主になることができる、という意。
トップの仕事は判断すること。適切な判断を行うためには、適切な情報が必要。太宗が臣下の意見を虚心になって聞き入れたのは、その一つの手段であった。
臣下が君主を諌めるには、死を覚悟してかからねばならぬ。それは、刑場に赴き、敵の大群のただ中に突入していくのと、いささかの変わりもない
発言者 太宗
部下が上の立場のものに反対意見を述べることは、大変な覚悟がいる。だから、上の立場にあるものは、ありがたく拝聴すべきであり、感情的に対応するなどもってのほかである。
臣をして良臣とならしめよ
発言者 太宗
臣の魏徴が職権乱用していると噂があり、事実無根であるとわかったが、太宗は「言動に注意を払って欲しい」といいつけた。それを受け、魏徴は「うわべをとりつくろって人の疑惑を招かぬようにせよ、とはけしからぬおおせである」と言う。「忠臣ではなく、良臣としてまっとうさせてほしい」と重ねると、太宗は「その違いはなにか」と尋ねる。魏徴は、「良臣とは、自らが世の人々の賞賛の声に包まれるばかりでなく、君主に対しても名君の誉れを得しめ、ともに、子々孫々にいたるまで、繁栄してきわまりがありません。一方の忠臣は、みずからは誅殺の憂き目にあうばかりか、君主も極悪非道に陥り。国も家も滅び、ただ『かつて一人の忠臣がいた』という評判だけが残ります。それを考えますと、良臣と忠臣とでは、天と地ほどの違いがあるのです。」

『貞観政要』以後のリーダーシップ論

愚かなことを言う者があっても、最後まで聴いてやらねばならない。でなければ、聴くに値することを言う者までもが、発言をしなくなる。
発言者 徳川家康
人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ
発言者 高杉晋作
みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず
発言者 吉田松陰
出典 不明

まとめ

以上例をあげてきたように、東洋のリーダーシップ論は、なによりも徳を大事にする帝王学の文脈で育まれているように思います。

リーダーシップとはいかにも西洋的な言葉でありますが、実は同様の思想が、東洋ならではの湿っぽさを持って、帝王学としてすでに存在していたと思うと、何やら誇らしい気持ちになるではありませんか。